start of the investigation since November 10, 2013 CONISCH Lab
start of the investigation since November 10, 2013 CONISCH Lab

CONISCH WWW

CONISCH WWW

* モーツァルトの“ラ”から導き出された不文律の生と死と変容

『ミュージコフィリア 音楽嗜好症』オリヴァー・サックス氏著 大田直子氏訳 を読んで

1 Dec 2014
コーニッシュ的瓦版

著者 コーニッシュ

日付 2014年12月1日

 

 

● 第1節 時間感覚の趨勢とは如何に

 

「絶対音感のある人にとっての楽曲の移調は、まちがった色で絵を描くのに似ているかもしれない。」

「ということは、モーツァルトにとって、特定の調で描かれた作品には固有の特性があり、移調されると同じ作品ではないことになる。」

 

 これは著者本人の言葉ではなく、著者に寄せられた手紙からの転載である。

 映画『アマデウス』の中でモーツァルトが得意の即興演奏を興じていたように、自身の曲を自在に調を変えて遊んだりしないはずがないと想像するに容易い事を考えると、上記の言葉は些か神格化された文言に聴こえなくもないが、確かに作品の調性と言うものは作曲家が吟味して選び、一度発表された作品は、原調(オリジナル版のキー)以外の調である事を寄せ付けないと言う捉え方に意味があるとすれば、その後に作曲家本人が移調を許諾する事と、演奏家の都合で移調する意味は当然ながら違って来るのかもしれない。

 

「今日のオーケストラが出す440ヘルツのラは、モーツァルトのオーケストラのラよりもおよそ半音高いという事実はどうなのでしょう。」

 

 

 これはつまり、同じ色(調性)で塗った(奏でた)つもりでも、パレット(調律)が違えば、同じ絵(音楽)には(厳密には)見えない(聴こえていない)と言うことである。ちなみに、この話題について当著が別段細密に取り上げている訳ではないし、そもそも其れ自体新しい話ではないことを附しておく。先ず、基準ピッチと言うものがここ2、300年の間に紆余曲折を経て、随分と高くなってしまったと言う流れがある。つまり私たちがモーツァルトの作品を現代の基準ピッチで調律された楽器で演奏すると、当時の演奏より半音も全体の音程が高くなってしまうのである。これは当時の楽器(古楽器、又はピリオド楽器などと呼ばれる)と当時の奏法(ピリオド奏法)を採用する事でほぼ解決されたと言う認識が為されてからは久しい。即ち、作曲家が作品を書いた当時の音を再現すると言う試みであり、其の様な演奏会が現在では世界中で頻繁に開かれている。弦楽器などに於いては楽器の構え方までもが異なり、更にテンポも今より速めに設定されるらしいのだが、後者については"今更ながら"奇妙な気がしてならない。モダン楽器(古楽器に対して20世紀頃から定着して来た楽器をこう呼ぶ)で演奏する行為と比較して、異なる様々な要素が相俟った結果だとしても、テンポが速いと、逆に現代風の演奏に聴こえてしまわないのだろうか?そう思うのは、現代よりも当時の人たちの時間感覚は相対的に遅いような気がしてならない、と言う極(ごく)私的な、漠として時が止まったような感覚によって得られた体感に起因している。

 

 ピリオド奏法を確立した立役者の一人、指揮者のアーノンクールが自身の著書で「モンテヴェルディ、バッハ、モーツァルトのテンポを正確に定めることは難しい」と言うような種のことを書いている。元々、種々のテンポにまつわる言葉の概念は時代と共に変化して来た。同著ではその象徴として「アンダンテ」のテンポについて論じており、現代では「遅い」イメージが定着しているが、18世紀の様式では現在の認識よりも大分「速い」とされていたと言う。それでもベートーヴェン以前にメトロノームは存在せず(メトロノームを最初に遣ったのはベートーヴェン)、記載されたあらゆる速度標語によって組み立てられた文脈を真ん中に据えながら、作曲家本人又はその弟子などの言葉が遺(のこ)っていれば耳を傾け、想像するより他ない。時代の狭間を行き来しながらアップデートされて来た言葉を正しく想像すると言う試みは、前述の例を取ってみても単に相対的に「速い」指示が為されているものを結果として歪曲している側面があるのではないか、或いは単なる字面に惑わされている部分があるのではないか、と推察せずにはいられない。

 

 過去の事物に触れた時、未だ嘗て誰も足を踏み入れたことのない場所に訪れた錯覚に陥った経験はないだろうか? 私たちは無意識の内に避けているか、意識的に近づく。前者の場合、何らかの力学が働いてしまい、誘(いざな)われることがたまにある。海上にぽつんと浮かんでいるような孤島の密林へと迷い込むような感覚である。恣意的ではなく意識を預け埋没せんとする行為は、忘我の境地に至る為に、太古より多くの人々があらゆる手法であり、試みて来たある種の儀式的慣習である。"タイムトラベル”と”創作の泉”の入口は異なる場所にあるが、立入の許可を得る切っ掛けには等しく必要なものは、”静寂”である。”静寂”に極めて近くに在るか、或いはそのものと化すかが鍵と為る。

 作曲と言う行為も泉からの恩恵に与るべく、同様に密林の中で玉虫色の輝きを湖水の中に追い求め、掬い取っては倒錯的に認めんとして、原石を磨(と)ぎ、紡ぐのだ。インスピレーションの源流とも言うべき湖水に広がる波状の曲線は、いわば時代のうねりをも秘めている。後世に語り継がれるどの時代の名作にも、その軌道を辿って来たと思われる跡が見て取れる。音楽は様々な記憶を伴う不思議な性質を備えている。何十年も前に聞いた音楽を耳にすると、当時の思いや映像、時に匂いさえも伴う記憶が甦ることがある。多くの人が共有して来た経験則であると思われ、分析すると途端につまらない話に聞こえて来るかもしれないが、調性にしろテンポにしろ、これらの記憶を呼び覚ます為に欠かせない要素だと言うことには違いない。又、個々人の感覚の話になれば千差万別ではあるものの、大きなマスとして捉えてみれば、その流れは時代が為す共通の感覚を必ずや片手にして、先導しているのものである。俄に過ぎて行く流行りやブームなど、その流れは過去と比較しても著しく速いと感じるのだが、いかがなものか?

 

 

● 第2節 古き馨香の素描

 

 机上の空論を繰り広げていても空しいだけなので、以上を踏まえた上で、”実験"してみることにした。お題として選んだ曲は、モーツァルトの傑作の一つ、交響曲第41番『ジュピター』である。音源をコンピュータに取り込んで、モーツァルトが使っていたとされる音叉のピッチ(A=421.6kHz)まで下げてみる(元の音源をA=442kHzだとして、おおよその値を計算して調整)。更に、前節でも触れた様に、今回の実験では、完全なる主観に於いて、テンポも「少し遅く」してみる。するとどうだろう、元の演奏からは決して感じる事の出来なかった何とも言えない味わい深い音楽が聞こえて来た。その瞬間、モーツァルトの目を通して見たその時代の失われた音が見えているのだ、と言う気がして来るから、尚面白い。勿論、それがその時代の音だと言う確固たる証拠は一切ないのだが、少なくとも、私自身の琴線に触れたことについて、一切の異論はない。

 

 再現を試みた『ジュピター』と元の演奏を比較すると、現代の演奏はもっとサラッとしていて、鋭いのだと感じる。ここで行った方法は決して正確ではないが、聞こえて来る音楽に耳を傾けながら、ピリオド奏法とは果たして現代に於いて如何なる立ち位置を得たのだろうか、と言う疑問が脳裏を過り始めた。このような演奏法は先にも述べた通り、限定的に有効であり、古典が古典たらしめる意義をも含めての楽しみに留まり、その手法それ自体が温故知新として“新しい”ものと成り得るとは余り思えない。タイムマシンが発明されるか、過去の音楽家たちと会話が出来ない限り、想像の域を出る事はなく、あくまでも我々後世の者に許された行為は、”再創造”だと言われて来た。それさえも”アート的包括”によって、”現代音楽”に組み込まれる事例などは幾度となく目にして来たように思うが、彼自身は懐古趣味に過ぎないことに変わりはなく、作者の扱い方次第となる。などと書き連ねて行くと、ピリオド奏法に対して余り良くない思いを抱いているかのように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。その証拠に、数年前にサントリーホールで聴いた「バッハ・コレギウム・ジャパン」の演奏による“音”は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。モダン楽器による演奏と比べて音楽の放つ”気”が異なり、同じ”静謐”を表すフレーズ一つ一つの息差しを感取してみても、成分量の割合が明らかに違うのだ。一つ一つの音の玉が含有する水分量が現代よりも少なめで、時にホコリっぽい匂いさえして(決して悪口ではない)、懐かしさと郷愁が漂う。既に「年月」と言う、我々の与(あずか)り知らぬ所で組成されたと思われる"自律した機関"が醸成した薫香に拠るのかもしれないが、当時の街の様子や人の話す言葉や気風さえも感じられるようだった。彼らの音を思い出せば、“ピリオド奏法”の意義は十分に感じられるし、自分達のルーツを容易に知ることが出来るツールでありメソッドなのだと理解出来る。

 

 

● 第3節 受け入られた死、そして変容へ

 

 ”ピリオド奏法”のような概念が生まれた原因を端的に言えば、時代が新しい音楽を求めたからではないかと思う。過去に遡ると言う行為に額面通りの説明を求めれば、大抵の場合、そこに”新しさ"は見出されないが、人類が繰り返して来た反語的道程に汲みすれば、”新しい"「概念」の成立を古きに求める方法論の蓋然性が極めて高いと言うことは、歴史を紐解けば直ぐに理解できる。私たちはそうやって進化して行くことを、遺伝子に義務付けられている、或いは、霊的に言えば、魂が求道している、とも言えるかもしれない。例えば、古いものの良さを活かしながら新しい感性を取り入れて作り直す”リノベーション”の考え方の根っこは、どちらにせよ、我々人間に施されたシステムの動力源とも例えられる其れに求められ、行為そのものが意義を成すセンテンスを表し、”変容”を示唆している。根付きつつある行為をアートとの親和性によって高めた「家プロジェクト」(香川県)や、「木屋旅館」(愛媛県)などは特筆されるべき事例である。又、多分野に渡り才覚を発揮し続けている演出家の三谷幸喜氏が、チェーホフの「桜の園」や、文楽作品「曾根崎心中(三谷作品では"其礼成心中”)」などの古典・伝統芸能と呼ばれるものの演出を手掛けるに至ったのは、多聞に彼のアヴァンギャルドに芽吹きを期待した証のような出来事であることに疑いの余地はなく、此れも又、”変容”を促す冥応に違いない。

 人類不変の営みとして目を向けてみれば、作品は作者が天に召されたあとも、"もの言わぬ戦慄"となって半永久的に残る。「生」は「死」と表裏一体であり、「生」を受けた瞬間、私たちはその存在に「死」をも内包し、「ヒト」の称号を得る(「ヒト」の語源には諸説有り、新井白石氏著の語学書『東雅』や、大槻文彦氏著の国語辞書『大言海』に拠れば、「ヒ(霊)のト(止)まる所の意」とある)。ヒ(霊)によって因縁づけられた遺伝子は、私たちが「人間」である以上、個々の人生に逐一働きかけ続ける普遍の基礎定数なのである。又、魂の求める道は果てしなく永らえるものであることからも想起させられる。その抗い難き因縁に絡めれば、死が肉体と言う名の衣と袂を分かち求め行く姿が、回り燈籠の中に薄らと浮かび上がってくる。闇の中で残り香のようにト(止)まった炎だけがくっついたり離れたりしている様子を見ると、縁たる縁を繋ぎ変えられながら歩み及んでいる人類を制し、星の運行までをも御する存在の深意までもが、俄に、厳かに顕現し、明らめる。

 

 最後に、大好きな映画監督であるジャン・リュック・ゴダールが、アルフレッド・ヒッチコックの『間違えられた男』(1956年公開 アメリカ映画)を評した書簡を引用して、今後の「古楽」の在り方について考えてみたい。(以下、黄色:筑摩書房『ゴダール全評論・全発言1 1950-1967』p.194-より)。

 

 「筋立ての骨組みを背景においやっているのは、ときどき不意に、それらの効果の明白な美をよくあらわにするためである。

 

 曰く、意識的に多用された「《表層的な》効果」ー「純粋に肉体的な様相」を追った「カメラのこうした途方もない動き」ーは、決して重要な場面ではなく、つなぎの部分において遣われている。ここでゴダールが実に手際良く語るのは洗練された「様式美」についてであり、現代に於いて、あらゆる分野の芸術家にとって緊要な命題であると感じる。あらゆる芸術の多くは過去の歴史をなくして語れない、と言うより不可分の関係にあり、必ず何かがどこかで繋がっているものである。様式美は長い時を掛けて醸成された手法の内にあって、芸に身を置く者であれば、其の正体を知っておいて損はないし、飼い馴らしておく必要さえある。キワモノ扱いされていたのも今は昔、「古楽」もその一つになりつつあるのだ。現に一人の奏者が、モダン楽器だけではなく、古楽器も扱うと言うケースはよく見る。いつしか、モダン奏法と比較してどちらが上か下かの論争もなくなり、等しく音楽家の面前に差し出された表現方法の可能性の一つとして、「古楽」は当たり前のものとなっているようだ。

 

 2012年に東京の銀座にて世界初演を行った『愛の告白』(詩、作編曲:コーニッシュ)では、独立したレチタティーボとアリアを伴いながら、その音楽性はロックに通じるとして、バロック音楽の時代に誕生した「バロック・オペラ」に因んで命名した「バ・ロックオペラ」第1作目の劇作品である。作品の編成は、声楽+ピアノ+フルート+弦楽四重奏に加えて、シンセサイザー+コンピュータープログラミングを用いた。そして、フルートと弦楽四重奏には古楽に精通する奏者に演奏をお願いした(フルートには日フィルの遠藤剛史氏を、弦楽四重奏のトップにはバッハ・コレギウム・ジャパンのコンサートミストレスの高田あずみ氏)。既にオペラは現代に至るまでにレチタティーボとアリアの区別さえも混濁するような進化を遂げているが、ここで敢えて私がバロックを選んだ理由は言うまでもなく、その「効果の明白な美」を表す為にである。古いものから新しいものまで多様に取り入れたが為に、単なるデクパージュと成らぬ様に練り上げることに腐心した本作は、新しい響きを模索した作品であり、劇作品と言うスタイルも相俟ってか、その可能性は無限に広がっていると感じる。多様な可能性が眼前に広がり、何が現出して来るのか分からないのが劇作品の魅力であり、又、怪異でもある。その中で、自分が追究して行く一つの方向性が見出せたと思っている。あれから2年が経ち、今夏、第2作目となる『信徒右近』を書き上げた。来年没後400年となる高山右近を題材にした作品であり、お披露目を目論んでいる所である。

発行所:CONISCH Lab 瓦版売り:コーニッシュ
過去の文書記録
2016年 4月 2016年 3月 2014年 12月 2009年 11月
Copyright © 2009 - 2016 コーニッシュ, Conisch(コーニッシュ), CONISCH STATE, CONISCH Lab, コーニッシュ的瓦版, All rights reserved.