スーパーの作荷台で袋詰めの最中、小学校中学年ぐらいの男子が消毒液が入っていると思われる霧吹きを、目の前で何度も噴射して行った為、身の回りまでアルコールの匂い塗れとなってしまったものの、暫くしたら消えたので、雨のち晴れ。
マンションのベランダから高々と遊歩道に向かって釣り竿が掛けられて(干されて)いたので、雨。
今冬初めての雪をスタジオの窓から見られたので、晴れ。
トンネルの電気の電球色に於いて、見た事が無い程に高い発光量を放つビビッドな黄色の節度無き照射に、顔も躯も全てが寸刻の内にして浸食され、卦体な昂揚感に得てして、晴れのち雨。
前方を走行中のバイクの排気音と、カーステレオから流れる試聴中のエレクトロニカの電子音が、音程だけではなく音色すら似通っていて、一瞬どちらがどちらなのかが判別できないぐらい混濁する瞬間があったので、くもり。
一昨日見た「赤の月」と同程度の大きさの、今度は少し欠けた「黄の月」を見たので、晴れ時々曇り。
寝起きの一歩を踏み出したら、一昨々日(さきおととい)強打した「右膝」が今頃になって痛んで来たと思ったものの、気付いたら次の瞬間には(痛みが)消えていた。もはやイミフナズンにして、雨のち晴れ。
電車のホームで立っていたら、ハトが木の枝を咥えながら、右下から左斜め上方向へ飛んで行ったので、くもり時々晴れ。
でっかい「赤の月」を見たので、晴れ。
切符を買おうと地下鉄の自動券売機の前に立ったら、何も触ってないのにその券売機だけ「発売中止」となり、ポカーンとしている内に「どうされましたか?」と係員が駆け付けたので、雨。
ドアですれ違う際に強打したのは「右膝」だった筈なのに、時間が経ってから痛んで来たのは「左膝」にて、頭の中カオス。イオミフにして、くもり。
閑静な住宅街の中で共鳴し合う某薬局の空調数台が奏でる強大な音は、夜もすがら有り得ない暗騒音として常態化しているかのように見えたが、先の橋を渡り切ったのち、明らかに其の音が小さくなる瞬間が訪れた為、須臾に囚われるエニグマに付き、くもり。
ウォーキングの最中、少々不安定だけれども、耳慣れた音階であるが故に聴取可能な音、それも和音(ソラド)が、走行中のバスから、その姿が見えなくなっても聞こえるぐらいの音量でしばらく鳴り続けていたので、晴れ時々くもり。
街灯が眩しいと思いながらも光に目を向けたまま下り坂を惰性に任せて走っていたら、前方から来た人が上下共に白い服を着ていた為なのか、直前まで其の存在に気付かず、よもや激突!となりそうだったが、一応回避は出来たので、くもりのち晴れ。
ねずみが排水溝に入って行くのを見たので、雨のちくもり。
夜、買い物の帰り道、猫が横断歩道をノソノソと歩いて渡っている姿を見たので、雨。
夕暮れ時の運転中、進行方向数十メートル先の歩道付近から何やらバッサバッサと翼をはためかせる動きが視界に入って来たので黙視した所、男性の腕にフクロウが乗っていて、ビックリしたので、雨。
ナンバープレートの4桁の数字が並びがシンメトリーに構成されている車を立て続けに2台見たので、晴れのちくもり。
電車の中で本を読んでいるおじさんが、手すりと間違えて腕を掴んで来たので、くもり。
地域猫との在り方について少し詳しくなり、くもりのち雨。
カバンの持ち手と袋の間に10円玉が挟まって引っ掛かっていたので、晴れ。
家族の携帯を機種変更する為に付き添いでお店に行ったら、案内されて担当になった若い店員の、高圧的な態度に加えて、まくし立てる割に分かりにくい説明の酷さが余りに目に付いたので、幾許かの注文をした所、訳の分からない逆ギレをされたので、くもり。
金木犀の匂いがし始めたので、晴れ。
夜中、どこから共なく「クラリ」と言う子どもの声によるコーラスが窓の外から聞こえて来たので、雷。
光る石が落ちていたので、くもり。
散歩中、折り目や汚れもあまり無い絆創膏が、恰も地面に貼ってあるかのような状態で落ちていたので、くもり。
車を運転中、交差点にクッキーモンスターが落ちていたので、雨。
足元に小さな青い蝶が飛んで来たので、晴れ。
瀬戸内海に浮かぶ豊島(香川県)の家浦港近くのレストラン「イル・ヴェント」の入口に向かって左側の模様が、左から右へ吸収又は収斂されて行くように見えたので、くもりのち晴れ。
玄関の前にカナブンがいたので、晴れのちくもり。
ぞうりの底に画びょうが刺さったので、雨。
網戸に蝉が止まっていたので、雨。
車を運転中、前を走るバスから滴り落ちる水?が、道路のアスファルトの上に、進行方向と逆向きの「矢印(↓)」を描いていたので、雨。
妻の寝息が新曲のヒントになったので、晴れ。
自分の歩いている前を、白黒の猫が、右斜め後ろから左へと横切って走り去ったので、雨。
マイケル・ジャクソンの「Beat It」を部屋の中で口ずさんでいたら、外から聞こえた車のクラクションが合いの手としてハマったので、晴れ。
パンを買って帰ったら、妻も買って来ていたので、パン尽くし。くもり。
車のフロントガラスの上を、アリが歩いていたので、晴れ。
ちょっと高めの調律(多分、A=443kHzぐらい)で「ファー、シー」と言う増音程がどこから共なく聞こえて来たので、雨。
壁掛け時計が止まっていたので、くもり。
久しぶりに窓の外に来ていたスズメを見られたので、晴れ。
道ばたに落ちていたハンカチの模様がキティちゃんだったので、雨。
歩いていたら、右から左へ鳥(恐らく"モズ")が草むらの中から低空飛行で急に飛び出して来たと思ったら、今度は左から右へ大きな茶色のカエルがのっそり這い出して来たので、くもり。
乗車予定にしていた電車には「もう間に合わないな」と思って歩いていたが、隣を大学生が激走して行ったので、試しに追っかけてみたら間に合ったので、晴れ。
スタジオ作業後、また猫が待機。その場を去ろうとしたのだろうが、帰り道が同じ方向だった為、数十メートル案内される形になってしまったので、雨。
鳴き声こそ聞けなかったが、キジの姿を草むらの中に発見したので、くもりのち晴れ。
スタジオ作業の後、建物を出たら、出入り口で猫が待機していて、ビックリするわ。雨。
7ヶ月ぶりに通った道で、キジの声を久しぶりに聞いただけでなく、森の木々の葉擦れがAs-durのI度(=A♭のコード)の和音に聞こえ、更には大気がCの音を奏でていたので、快晴。
全く同じ一連指定番号の車を2度見たが、乗っている人が違ったので、くもり。
同じ場所で黄色い車を3台も見たので、雨。
朝5時頃にウォーキングをしていたら、猫の集会に出くわしたので、くもり。
朝計ったら体重が3kg減っていたが、夜計ったら元に戻っていたので、くもり。
家の外から聞こえて来た音が、ケミカルブラザーズの『dig your own soul』のイントロとそっくりだったので、くもり。
歩いてたら、目の前をハトが4羽飛び立ったので、晴れ。
タクシーで移動中、急にエンジンが切れたものの、運転手さんの裁量で走行には一切問題なかったので、晴れ。
乗車した電車の扉付近に立ち、ふと外を見た瞬間、白いハトが5羽、並走して飛んでいたので、晴れ。
山鳩が急に真上に飛んで行ったのが窓から見えたので、晴れ。
スーパーでカートを弾きながら買い物してたら、知らない内にグレープフルーツが1個、下段の窪みにはまっていたので、晴れ。
電車を降りる寸前、ピカッと閃光が走ったので、雷。
道ばたに黒い紐が8の形を描いて落ちていたので、くもり。
ボストンの美術学生がヘタリアの曲を学校の課題に使いたいと連絡をくれたので、晴れ。うれしいね。がんばってね。
何度も連絡をくれるファンの期待に応えられておらず残念、なので、雨。
"黄色"の謎が解けたので、晴れっちゃ晴れ。
雪掻きして作られた道のところどころが黄色いので、くもり。
雪で作られた猫バスを発見!その出来があんまりすごいので、晴れ。帰り道、もう一度見ようと立ち寄ったら、壊されてて見るも無惨なタダの雪の塊に。やっぱり、雨。
雪掻きして作られた歩行者1人がやっと通行出来るぐらいの幅の道に、黒猫が通せんぼしていたので、雨。
街は雪で覆い尽くされ、もう何が何だか識別不可能になってしまったので、くもり。
何年振りかで風邪を引いてしまったので、雨。
何も届いていないのに、携帯に「メッセージの着信」が。くもり。
まだ夕方5時なのに既に酔ってるおっちゃん4人組がまるで子どものようにはしゃいでるので、晴れ。
黒猫と三毛猫、大学生らしき男子が写真を撮っている所に出くわしたので、局地的に雨。
今日も黒猫が同じところで待機してるので、くもり。
黒猫が道で待機してるので、くもり。
自転車の競技用のヘルメットがベンチに座ってる。不気味。くもり。
白猫登場、黒猫も登場・・くもりのち雨。
黒猫と三毛猫のペア。通りかかったご夫婦も、黒と黄土色っぽいシャツのペア。なんじゃこりゃ。くもり。
猫4匹の集団に2組も会う。猫多過ぎ。雨。
行きと帰り同じ場所で黒猫に待ち伏せられ、"おかえり"の如く、「ミャア」となで声で迎えられたので、雨。
三毛猫が道路の真ん中に座ってる。こっちが来たら、のそっと道を開けてくれたは開けてくれたけど・・雨だな。
ある直線距離を、モンシロチョウが先導してくれたので、晴れ。
陽光の眩く清い照射に十分に応える深緑の美しき並木道、砂塵に塗れて超幻想的、晴れ。
末成りのでこぽんを食べた後の皮が、明らかに彼のネズミの姿だったので、晴れ。
最初に赤のシャツ、青のトレーナーをそれぞれ着た男の子二人、その直ぐ後ろに黄色のトレーナーの女性、また少し歩くと緑のジャンパーを来た男性、ここまで来たらあとはピンクだ!と思ったら、ほんとに来た。でも、男性。戦隊ものに登場するピンクは女性が普通だから・・惜しい。くもり。
垂れたチーズが、フォルテ記号を形作ったので、晴れ。
昨日と全く同じ場所で、またもや同じ雉が急に声を掛けて来たので、晴れ。
野性の雉が急に声を掛けて来たので、晴れ。
メールソフトが受信したメッセージを勝手にゴミ箱へ捨て始めたので、くもり。
ピアノの後ろを通ったら、ピアノの蓋の留め金に服が引っかかって破けてしまったので、雨。
メールを書いていたら、例えば、「あ」を1回しか打ってないのに、「ああああああああ」と打ち込まれてしまうし、じゃあ消そうと思ってDeleteを押すと、今度は反応しないから長押ししてみると、急に寄席の「傘回し」張りの「いつもより余計に消しております」みたいなサービスを始めたみたいだけど、そんなもん要らないし、流行んないよ。雨。
うぐいすが、これでもかってぐらい長く歌ってくれたので、快晴
ヘアメイクのKさんと話していたら、遭遇した事がある(又は仕事で御一緒した事がある)芸能人が3人も一致したので、晴れ
宅急便配達員の方が渡してくれた配達票を取り損ね、ひらひらと舞い、配達員の股間に張り付いてしまったので、くもり。
ネギとニラを腐らしてしまったので、雨。
空だったけど、牛乳瓶を割ってしまったので、雨。
歩いていたら、オレンジのトレーニングウェアを着た人が、追い抜いて行った。その数秒後、また全く同じウェアを着た人が、追い抜いて行ったので、くもり。
林の後ろに見える横長のマンションの、サンドウィッチの層のように綺麗に並ぶ各階のベランダの連なる壁が、突然、乱立する縦方向へ伸びる木と重なり視界が混濁すると言う現象を引き起こし、蹌踉めいたので、雨。
Invistigation
「ミュンスターバーグ錯視」に類する現象が起こったのだ、と考えられる。ミュンスターバーグ錯視とは、カフェウォール錯視と呼ばれる錯視と同種のものであり、下図がそれだ。横に走る線は、どれも平行であり、決して曲がっていない。しかし、私たちの眼には明らかに歪んで見えている。厳密には直線ではない木々が乱立する後方で、均一に並んだマンションの階毎の分割線が、錯覚を引き起こしたのだと見る。
玄関のインターフォンの横に団子虫がいたので、雨。
電波障害で切れ切れになった相手の声が見事に音階にはまり、三波春夫さんの「世界の国からこんにちは」のメロディの一部が聞こえて来たので、晴れ。
家の扉の直ぐ外で、突然、おばちゃん達のけたたましい笑い声が聞こえて来るから、びっくりするから・・・ 雨。
左目にものもらいが出来てしまったので、雨。
本ラボの壁紙が急に縦縞のストライプになったので、くもりのち晴れ。
Invistigation
どうやらバグらしいが、色合いを見ると、恐らくは本ラボの壁紙である「夜警」に、予期せぬ力学が働いた、と考えるのが妥当か。ベクターイメージ編集ソフトIllustratorで「夜警」の画像を試しに縦方向に引き延ばしてみると、おおよそ30倍以上引き延ばされた所で、占いの形容("縦縞のストライプ")に近しいその姿を現した。しかしながら、それでも尚、フランス・ベニング・コック隊長とウィレム・ファン・ランテンブルフ副隊長、二人の率いる市民隊員たちが織り成しているであろう縦縞模様は少々湾曲した河川の如く、バグによる美しいストライプとはまだ完全一致とは行かない。この後、どのような編集をすれば、一致を試みられるのかは直ぐに思いつかないが、恐らく、この模様を描く為に、縦方向の色が均一に圧縮されたのだろう。何とも不思議な現象だが、一瞬の出来事だった。
縦方向への伸長は、「笹のプロペラ的旋回」に始まった挙動に等質性を見出す事が可能だと考えてみる。運動性の示す方向性の一致は、何を表す(現す)ものなのか、確たる事は何も分からない。今のところ考えられるとすれば、インスピレーションの発露の予感、或いは眼に見えない事象を、茶目っ気たっぷりに、物的世界の内に見せてもらった、と言ったところであろうか。
縦縞のストライプと言うプロポーザルは、直ぐにタイムトラベルのシーンを想起させた。何かのテレビ番組とかテレビゲームの記憶だろうが、何故かは分からない。ペンディングしておこう。
窓の外で、スーパーのレジ袋がつむじ風に乗って飛び回っているので、きっと晴れ
Invistigation
1ヶ月前に出会った「笹の旋回」(2/15の記事)と、関連があるかもしれない。その時には、何も飛んではいなかったが、スーパーのレジ袋と言うところがイワク的だが果たして。
男子小学生3人組の内1人が、すれ違い様に「てんねんぱーまーかっこいいー」と棒読みで言って来た。天然ではない、養殖である。で、くもり。
運動靴に画びょうが刺さっていたので、雨
音楽に関連する記号が沢山書かれた紙コップ。ト音記号や四分休符、十六分音符、トリル記号・・・「nf」って?「mf」メゾフォルテは知ってるけど、ネゾフォルテ?いや、そもそも楽語でもなく、「ノンフィクション(non-fiction)」?・・訳が分からないので、くもり。
壁から電柱が生えていたので、くもり
帰宅途中、突如クロネコが草むらから出て来て、それはそれはフテブテしい態度でノソノソと目の前をマイペースにゆっくりと。しかもこっちをチラッと一瞥しながら故に、尚ニクタらしイ、が、それでもタイミングとして進路上での衝突はなく、こちらもマイペースを貫いて素通り出来たので、雨のち晴れ。
Invistigation
黒猫は不吉なものとされると言う話を聞いた事があるが、それを抜きにしても、些か滑稽とも見て取れる憎らしい程のふてぶてしさに苦笑してしまった、故に、一事は「雨」と判断。彼(彼女?)は言うまでもなくマイペース、しかしこっちだって負けやしないと、半ば面白がって、マイペースを貫いてやった。突如として視界の中に入って来て、向こうは私に文句の一つも言いたかろうが、お互いがお互いの所為で牽制したものの制止に至らずは済み(お互いの利害は一致し、瞬時に決着したのだ!)、前進する事が出来たので、一応、「のち晴れ」とした。
「雨」から「晴れ」への展開について、もう少し論を広げてみたい。
黒猫と言うものが不吉なものの象徴としての社会的認知の高さを誇るその理由は、ヨーロッパで魔女狩りが行われていた16世紀頃に生まれた言い伝えに端を発し、後にエドガー・アラン・ポーによって執筆された短編小説「黒猫」で、そのイメージは決定付けられた、と言うのが一つの見方である。
唯唯として「不吉」とだけ突き付けられても、合理的な根拠を求める人にとっては、迷信家の戯言にしか思えないかもしれない。将又そんな事とは関係なく、猫好きの人などは怒り出しそうな言われようでもある。私自身、猫が大好きとは言えないが、毛嫌いする理由もないので、そのどちらでもない、としたいところだが、どちらかと言えば、感覚的には迷信を信じる方に近い。しかし、理由もなくそう決めつけてしまうのはポリシーに反する。
仮に黒猫が「不吉なもの」の象徴だとしよう。そうであるならば、彼らが自分の側を"通り過ぎる"所作に対しては、「不吉が遠ざかる」と言う解釈があっても良いのではないかと思い、調べてみた。すると、予想は辛くも的中。「黒猫が横切ると不吉なことがある」とは全く逆の言い伝えも存在するらしいのだ。「黒猫が横切ると幸運がある」である。蓋し、両者は元来「対」を為すものだったのではないか、若しくは黒猫と言うものに課せられた大本の定義に由来する何かが存在するのかもしれない、と考え、そう仮定して更に考察してみる事にした。
年月と共にその内容が要約、或いは簡素化されて「不吉」と「幸運」と言う大雑把な括りで語り継がれて来たのか?と考えてみるが、そうなった理由は何であろうか。これに限らず、言い伝えや伝承の類いは、長い年月を掛けて語り継がれて来たからこそ、その間に余分な贅肉が削ぎ落とされ、誰にでも分かり易い言葉として、真理だけが残っているかもしれない。コウノトリが幸せを運んで来てくれるとか、ここでもよく登場するハトを捕まえると不吉なことが起こるとか、伝承にある神秘的なイメージも含めて、それらの内容が決して無意味だとは言い切れない。何故なら、そう言った言葉の数々は確かに太古より残っており、事と次第によっては禁忌とされ、人類は遵守して来たと言う歴史が確かにある。
但し、「黒猫」にまつわる言い伝えのようなものには、どちらにせよ、白か黒かと言うような結論に導くのは難しい。或いは、半意図的に導き出さないのは、言うなれば、各々の感覚と連関が既に起こっているからだと考える。急に突き放した様な論調に聞こえるかもしれないが、つまりは、そう言う事があると思えばある、ないと思えばない。説明できない出来事に対して特別視するような言い方より、こうした言い回しの方が受け入れ易い人もいるだろう。それを踏まえて、やはりこのレポートも全て思い込みによるものだと言う人もいるはず。その意見に私自身も共感するが、単にそれだけじゃ答え切れない何かの正体が人間の想像力に関わっていることや、科学では説明できないこともある、と言う観点から調査はこれからも続けたい。目に見える形として、公的な機関による教育や情報の共有などによって、同じく地上で共生する私たちには共通認識や共通言語のような大前提が沢山ある。それらは夫々の肉体がフィルターを通して多様に種々の個人的な考えへと変換されて行き、網の目のように細分化された思考目録が積み重ねられ作られているが、一重に誰しも体験する「できごと」に対する考えは、帰結の形によって考えは思いへとも変わる。その思いが、黒猫を「不吉と感じる」「不吉とする」と言う人もいれば、「幸運と感じる」「幸運とする」と言う人もいる理由なのだとも考える。
ここで書き連ねている「寓意」は、誰にでも起こり得るが、その起因は、結局は本人の意思に拠るものだと私は考える。偶然だと思えば偶然だし、必然だと思えば必然なのである。どちらが正しいか、などと断言する事は決して出来ない。どちらも真実なのだ。それらを踏まえれば、人間が自ら作り出して来た、或いは思いもかけずに生じてしまった(良きにしろ悪しきにしろ)何かしらの(因)縁、それ自体にまつわる「可不可」についての一つの象徴として、「黒猫」と言うものが存在しているのだと考えるのは如何か。
さもすれば、今度は「因縁」と言うものを巡って、黒猫と対になるような別な生き物、動物がいるのかもしれない。それについては未だ圧倒的に情報量が少な過ぎるので、日々の実験に身を潰(ついや)しながら、気長に偶然性を期待・・否、必然性の賜物が訪れるのを待つとしよう。
和室の戸が1回だけスムーズに閉まったので、雪。
洗面所に落ちた髪の毛がアルファベットに見えなくもないので、左から順に読んでみると「J」「sd」「a」「c」。・・何のことやら。解析中。
道ばたに生えてる笹がプロペラのように旋回していたので、つむじ風の発生。
Invistigation
傾斜角5°程度の緩やかな坂を歩いている際、ふと左を見ると笹が奇妙奇天烈な旋回をしていた。まるでヘリコプターのプロペラのようだが、根が張られているので、飛び立つ事はないだろう。結局、笹の後方にある住居の窓に据え付けられたエアコンの室外機から排出された風が、上手い具合に吹きかけ、旋回を引き起こしているようだ。
予報した「つむじ風」とは「塵旋風(じんせんぷう)」とも呼ばれ、日射によって暖められた地表に上昇気流を発生させ、水平方向からの強風などで渦を巻いて吹き上がる風の事を言う。これまでも、「水平方向」からの力学のアレゴリーについては、逐一、その意義と重要性を探りながら計って来たが、「垂直方向」の発生は初めての事だ。「地表を暖める」ことが、"次"への暗喩か?
広場で遊ぶ子供たちの横を通り過ぎようとしたら、サッカーボールが左側から転がって来たが、ボールの進路からちょうど50cmぐらい前を歩いていたので、そのままの体勢では少年たちの為に止めてあげられないと思い、咄嗟に左足を後方へニュッと伸ばしたら、ちゃんとあたって少年たちの元へ帰って行ったので、くもりのち晴れ。
Invistigation
またもや、左方向から物理的動作の出現。よっぽど「左から右」と言う動作に意味を見出してほしいと言う事なのか、それ以外の曰くさえ疑いたくなる。昨日までとの違いは、ただその動作(鳥)を見るだけの「傍観者」から、その動作(ボール)に関わる「当事者」へと変化したことにある。
「(サッカー)ボール」は「球体」である、などと思いを巡らしていると「旧態依然」と言う言葉が釣られて浮かんで来た。今まさに歩んで来た進路の直ぐ後方へ目掛けて転がって来たと言う関係性「=球体以前」から掬い出されたものだろう。
これまでの考察結果(「左から右」と言う一連の動作が、「現在から過去」或いは「未来から現在」を表す)と、ボールの行方を重ねて、その行程を意義析出への一途を辿らせてみると、「現在から過去(未来から現在)」へ「旧態依然 (球体以前)」に転がって来た、と言う比喩のような寓意が浮上する。既にボールと接触するラインから50cmの距離を持って外れていた事は、現在との無関係性を示唆するものだったと理解するが、それを敢えて蹴り返した、蹴り返さずには居られない状況が訪れたと言う事は、単に「旧態依然」を跳ね退ける自身の意志が具象化されただけではなく、回避が自身への命題として課されている、或いは期せずして急迫する選択の暗示とも考えられるか。それと同時に浮上する疑問は、その相手が「子供」であったことである。一体何を示しているのだろうか。
デコポン(不知火)の皮を剥いたら、Sの字になった。一房から二つも種が出て来て、それらを皮の中へ目掛けてプッと飛ばしたら、皮に弾かれ、皮を中心に両側へ一つずつ、きれいに前から見ても後ろから見ても同形の対称性の図形になったので、晴れ。
Invistigation
剥いた皮の下に敷いたティッシュは、まるで額縁を模しているかのようにも見える。対称性と言う様式の成立に伴って、ある種の作品として見る向きも出て来るのだ。でこぽんの皮の配置に一切の作為がなかったことを考えると、その始まりにあった野性の精神そのものが、偶然性に価値を見出せるような姿を生んだのだと言えるだろう。
左隣の部屋のベランダから、ヒヨドリがニュッと顔を出したのち、獲物でも発見したのか、翼を畳んで、右下へと放物線を描いて下降していったので、雨。
Invistigation
1st movement - Allegro ma no troppo
その出来事の直後、日本の巻物は「右から左へ」物語が進められて行くと言う話を、とある番組の中で聞いた。日本では巻物に限らず、書籍、看板など、文字にまつわるものの多くが、漢文に倣って「縦書き」の流れを汲んで来た。その伝統とも文化とも言うべき所作が、このタイミングで目撃した鳥の動作との何かしらの関連性を示唆しているのだと仮定すると、先日のハトと言い、今日のヒヨドリと言い、太古より霊魂が「鳥」の型を取ると考えられて来たヨーロッパ諸国からの言伝に“渡り”を託してみたくなった。そう考えてみようと試みる理由の一つには、世界地図を広げた際に、「ヨーロッパから日本へ」辿る道程が、特にヒヨドリの動作「左から右へ」(しかも、右下へ飛行)に奇しくも一致するからである。
「左から右へ」(横書き)と言う文化がもたらされたのは、18世紀後半に蘭学が紹介された時だと言われている。現代に於いては、日本に限らず、縦書きと横書きの両者が寛容に溶け合っている事は誰もが知る所である。日本の場合は鎖国の終焉と共に、時代の流れが各地で融合を促した。様々な情報の「共有」は、書字方向の融合に留まるものではなく、そのうねりは多様に何かを促しているとして、例えば、多くの経済評論家がこれからの緊要なる課題として「共有」の概念を掲げるまでに、価値が付与され浸透して来た事は、全てに於いてとまでは言えないがインターネット誕生による国境の崩壊が寄与している。
ここまでで、ハトなり、ヒヨドリなりの動作と番組内での話との一致から考えられることがあるとすれば、日本に居ながらにして、他文化の息吹を看取するである。
2nd movement - Scherzo
今一度、「右から左へ」物語が進められて行く「縦書き」と言うシステムを眺めてみる。読者が読んでいるページ数や行数、つまり、文字を追っているまさに今と言う"時"、或いは"この場所(ページ数、行数)"を「現在」と言う時間的概念で定義すると(内容の時間軸も加味するとややこしくなるのでここでは触れない)、それより以前(右側)は全て「過去」となる。この伝統的な縦書きシステム「右から左」には、「過去 → 現在」と言う時間軸の基本ルールが組み込まれていると考えると、一連の鳥たちの動き「左から右」はそれと逆になり、「現在 → 過去」と言うタイムラインが浮かび上がって来る。果たして、これが何を意味しているのだろうか。現在から過去までに遡って注目すべき事があるのか? 或いは、日本の持つ何らかの宿命に従って為すべき事があるのか? 更に、少々エキセントリックではあるが、それぞれの時間概念をシフトアップしてみると、「現在 → 過去」は「未来 → 現在」とも置き換えられる。と言う事は、未来からのメッセージの暗示?
3rd movement - Rondo
とある番組とは、NHKの「日曜美術館」である。番組で取り上げていたのは、日本のバルビゾン派とか、日本近代洋画の父などと称される明治の洋画家「浅井忠 (1856-1907)」。晩年、近代デザインの発展に寄与する事となった作品制作や活動を行っていた事はあまり知られていないとし、その先鋭的な内容が紹介されていた。東京美術学校(現在の芸大)を辞め、京都に移住し、「和とモダンの融合」について取り組んだとある。彼はデザイナーとしてだけでなく、プロデューサーとしても活躍し、後進の教育にも熱く取り組んだ。明治と言う時代は、現代のように「デザイン」と言う概念への理解はなく、そのような分野に重きを置く人はまだいなかった。
日本に居ながらにして、「横書き」と「縦書き」と言う正反対の定め事を秘めた西欧(モダン)と日本(和)との融合を図った浅井忠の信念は、前節までに書いた「日本の伝統的な書籍システム」と「一連の鳥たちの動き」との関連性にも光を与えるものであり、共時性をも暗喩していると感じられる。鳥たちの「左から右」への示唆に、「未来からのメッセージ」も暗示されているのだとすれば、これらの寓意から得られる智見は「西欧(モダン)から日本(和)への道程を知れ」と言うことではないだろうか。
突如、窓正面の柵上にハトが着地。右目で、左目でと順にこちらを黙視したのち、幅3cm程の縁(へり)を上手に右へ —見える限りでは2mほどの距離を方角としては南向きへー 眩しく照らし始めた亭午の日差しへと歩き始めたので、くもりのち晴れ。
Invistigation
その直後に「電話」が鳴り、目を離した次の瞬間、ハトは消えてしまった。十数年前のとある日に、窓の向こうに現れて以来の付き合いである彼との邂逅 —質問に行動で答えを示した、あの不思議な体験— を考えると、今日の行動には何を見るべきか。
改めて、細長い縁(へり)をハトが歩む様子を思い浮かべると、能の「反閉(へんばい)」が心に去来した。その瞬間、脳内で、火急の聯繫(れんけい)を促すような気分の昂揚が中咽頭(mesopharynx)より上方付近に胚胎し始めたので、凭(もた)れる感興の赴くままに、勇んで彼の地へ踏み込んでみる事にした。案の定、本ラボのリニューアルに確信を与えるかのような意識の炎が網様体に揺らめいているのを感じるのと同時に、瞬間沸騰を成し遂げた頭頂部が、嬉々として汽笛を上げる様はいつだって気持ちが良いのだと痛感する。
「反閉(へんばい)[= 禹歩(うほ)]」とは、我が国の伝統芸能でみられる独特の足の踏み方を指し、能の「翁」「 三番叟(さんばそう)」の呪術的な足捌きや、「道生寺(どうじょうじ)」の乱拍子等がそれにあたる。元来、天皇などの貴人が神拝等の外出時に際して、「邪気を払い祈願する為に行った陰陽家の秘宝」に由来すると言う。一個人が天子にまつわる神事の一つに論拠を委ねるなど、甚だ烏滸がましい限りであるが、飽く迄も、親しきハトからの親和性の込められた寓意だとして許して頂きたい。又、ラボの新しい船出を祝う吉兆として、有難くここに頂戴仕り候。
一連の動作が「ハトの反閉(へんばい)」だけに留まるならば、単に喜び勇んで上記で終わるのだが、その最中に掛かって来た「電話」の存在は無視できない。ここからが本題である。着信の相手は某通信会社のセールスであり、その番号、10桁の数字の羅列について、 —何の根拠も無いと思っていたが、少し考えてみた所、あった。開典(又は聖書)占い的な無意識下に於ける神慮の授かりを願って— 幾つかの換字式暗号に当てはめて読んでみると「黒いみみこ」や「イサケナ」などの言葉が抽出された。一見、何の意味も持たない"芥もくた"にも思えるが、「みみこ」は確か公園で落とした人形の名前で、全く関係ないと言う訳ではない気がする。「イサケナ」はミシシッピ州の西部に位置する郡の名称だそうで、現段階で収集出来る情報の中で特質すべきものがあるとすれば、〈 2000年から2010年までの10年間で人口が38.2%減少した 〉とか、〈 南北戦争以前の奴隷の人口比率が州内最高値(92.5%)であり、その多くが「黒」人奴隷である 〉、など。「ハトの反閉(へんばい)」とこれらの抽出された言葉が表層部分で結び付くとは考えにくいので、寓意を見出してみると言う方法論に身を委ねてみる。それを前提として、まずは、「黒いみみこ」と「イサケナ」の間に発生していた「黒」と言う言葉の一致が「遮る電話」に密やかに内在していた事に着目し、認識し、熟慮を図ってみたい。
「みみこ」はその名前からも連想できる通り、ウサギの人形であった。落としてから既に30年近い年月が経っているものの、居なくなった時の喪失感を今でも割とはっきり覚えているのは、幼い頃の大事な友達の一人だった証拠である。彼女にまつわる「黒」の意味は何であろうか。「黒」には様々なイメージがあり、他の色に染まらない性質から「中立」を意味するとして肯定的に扱われること(裁判官の法服、旧日本陸軍の憲兵に充てられた識別色など)もあるが、「闇」のイメージからは否定的な意味を付与されてしまうことも多い(悪、死、犯罪や災厄など)。確か「みみこ」を落としたのは、清掃人が常にいるような日常的に管理下にある公園か遊園地だった記憶があるので、既に捨てられて塵と化している可能性は高い。などと書くと何とも遣る瀬ない気持ちにもなるが、そう考えてみれば「みみこ」が廃棄される際に炭化(=有機物質を空気や酸素の流通を断って加熱すると、黒色の炭素に富んだ物質に変化。[JapanKnowledge「日本大百科全書(ニッポニカ)」より引用] つまりはゴミ焼却場による廃棄)のプロセスを辿ったことによって「黒」の意味に「消失」が含まれていることを見出せる。ただ、「ハトの反閉(へんばい)」から至る一連の流れが、今更、そんなことだけを伝えたかったわけでもあるまい。
次に考えるべきは「イサケナ」に象徴される「黒」の関わりだが、果たして何であろう。先にも書いた通り、この地域一体に蔓延っていた奴隷制度の犠牲となった「黒人」の存在がそれにあたるのかどうかを考えることから始めてみるべきだが、その論理展開が成立するかどうかの前提条件とは、「みみこ」の「黒」に見出した「消失」の意味が同様に得られるか、に因る。
現在、ミシシッピ州の西部に位置する「イサケナ郡」は深刻な人口の過疎化の問題を抱えている。アメリカ合衆国商務省による国勢調査に拠れば(以下、『アメリカセンサス局 U.S. Census Bureau』参照)、彼らの平均所得は全国でもかなり低い方にあり、永続的な貧困状態(2000年頃の一万ドルから比較して10年程経っても一万五千ドルに過ぎない)は、人口流失を避けられない大きな要因だと考えられる。また、(先にも書いたが)地理統計が掲載されているサイト「GeoHive」を見ると、確かに、イサケナ郡の2010年の人口は、2000年時よりも38.2%減少している。しかし、2010年から2013年までの3年間では数十人程度の減少しかなく、現時点での動向を考えると横ばいだと見て取れる為、調べながら仮定してみた「多くの黒人がこの地を離れる」ことによる「消失」が、現在でも付与されているとは少々考えにくい気がする。
そこで仮に、「黒」の意味に含まれる「消失」を探る為に、もう少し「黒」のイメージを「闇」に傾倒させてみる。するとどうしても無視できなくなり、それを想起させるのは「黒人奴隷」の行方であり、実態である。彼らの壮絶な生活を垣間見られるとして話題にもなった映画『それでも夜は明ける』が第86回アカデミー作品賞を受賞できたのは作品の素晴らしさだけではなく、アブラハム・リンカーンによる奴隷解放宣言から152年もの月日が経って漸く世情に変容の理を見る、と言う考え方もできなくはないだろう。と言うのも、当時を知らない私たちが知る為の、黒人奴隷について扱った作品は数多くあったが、古くはアメリカ文学の巨匠ウィリアム・フォークナーが1932年に世に送り出した傑作「アブロサム、アブロサム!」がフランスでは評価を受けたものの、自国では大した評価が得られなかったことからも言える。その内容は奴隷制時代の実態に迫るものであり、根強い差別的な感情が、作品を正しく評価できなかったと見る向きもできる。
これらを踏まえて、「イサケナ」が意味を為す「消失」する「黒」とは、黒人奴隷の人生の真相が「闇」に葬られて来たことに由来しており、それは詰まる所、イデオロギーだろうが、一個人の人間としての心の内奥に秘めた問題だろうが、「暗部」に掛かっているのだと、結論付けたい。
これが私個人に向けられたメッセージだと考えれば、これらの寓意を導き出すことが与えられた課題であって、このような行為は、前記されたセンテンスの「秘宝」にシンボライズされる「邪気払い」にあたるのだと暗に示されているのかもしれない。我田引水もいいところだと非難を喰らっても可笑しくない様な偏屈な語りに聞こえる人もいるかもしれないが、このプロセス自体がコーニッシュ流の謂れであり、「Tempo de Conisch」の証でもあるので、頂いた「祈願」を続けて行きたいと思う。