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Biography of Conisch  part II

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Conisch (コーニッシュ)
◆ BIOGRAPHY

 

■ 幼少期

 早期教育のブームに乗ってクラシック音楽による「胎教」が両親によって施されたが、生い育った横浜市内の社宅の小さな火燵の上で、スーパー戦隊シリーズ第7作『科学戦隊ダイナマン』の主題歌に合わせて踊り歌い狂っていたのがコーニッシュ自身の音楽にまつわる原初の記憶であり、皮肉にもクラシックとは関係のないものだった、当時2歳。音楽が大好きな母が趣味で弾いていたオルガンを、音の出る玩具としてメッタ弾きにする友達に対抗心を覚えるものの、実際に母自身が子供時代に出来なかった「ピアノ」の夢を託され「やってみたら」と言われた時には、"始める”までの決め手にはならず、或いは「中学生ぐらいになってギターとか弾きたいと思った時の為にも音感を付けておくと良いよ」と添えられた言葉の意味にもピンと来ず、にべもなく断った。

 間もなく入園した幼稚園のクラスの担当になった先生は、子供たちが遊んでいる間中、ピアノをずっと弾いていてくれる人であり、 – 何の曲かは朧げでよく覚えていないが(コロコロと転がるような曲調や、穏やかな雰囲気の曲が多かった)少し硬めでやや無骨だが弾き手の音楽に対する愛情が伝わって来る心地良い音色は(若干、彩り豊かな記憶に書き換えられている気がしないでもないが、それでも)大人になった今でもそのイメージが円やかに耳に残り、赤茶けた木目のアップライトピアノのフォルムの残像が心に焼き付いている、その御蔭か – 興味を持ち始めた。何故なら、「こんな曲もあんな曲も弾けるのか」、そして何より胸の高鳴りを覚えたのは、「(音楽とは)こんなにも人を楽しませられるものなのか」と。 ウズウズした感覚が、– それは自分の"音楽"を奏でたいと言う渇求の逬発によって引き起こされる条件反射の一であり、根底に刻まれた印の様に-  鮮やかに純一無雑のまま残っているように思える。シンボリックな現象の同定が、コーニッシュ足らしめんとすアイデンティティの獲得を示し、同時に人生の岐路にあって度々象徴的に現れるその感覚に導かざる人知の計り知れない霊妙さには、畏敬の念すら禁じ得ない。 –そう、未だ音符すら読めない。にも関わらず、先生の姿を眺めながら、「(方法は分からないけど) 自分ならこう弾くんだ」などと言う想いだけが膨らみ、"始める"準備だけは、一丁前に出来上がって行った。

 

■ 5歳~7歳 始まり

 待望の音楽教室に通い始め、カリキュラムに従い、ピアノ・ソルフェージュ・楽典などを総括的に勉強し始める、5歳。ピアノ用に編曲されて載っていたヴェルディのオペラ「椿姫」第2幕の「Noi siamo zingarelle」はなかでも好きな方だったが、課された曲はどれもこれも似たり寄ったり、初めてから2年、完全に飽きていた。と言いつつ、他の誰よりも弾けるし出来るから興味があると取られ、次のクラスを勧められたのでオーディションを受け進んだ先には厳しい先生が待っていたが、やはり与えられた教本の詰まらなさに辟易するのは相も変わらず。他のクラスの3,4倍出されていたとされる課題は和音付けや視唱など、毎週10から15個は当たり前で、泣く子も続出、見守る親には緊張が走っていた。それでも自分の好きな事を思う通りに取り組む時間が欲しくて、宿題だけに時間を取られたくなくて、全てをこなすのに2日以上は絶対掛けなかった。画一的な教育を避けようと言う指針の現れに思えた、他の生徒とやや異なる教材 ースペインの作曲家(アルベニス、ファリャ)、ジャズ(セロニアス・モンク、ボーリング)ー をあてがわれるものの、感嘆し心打たれる事が一時的にはあっても、決して満たされる事は唯の一度もなかった。古典音楽に対する興味や美点に理解を示したのは完全に大人になってからであり、今となっては良い悪いでは片付けられないが、それはねじれとなってコーニッシュ自身の音楽人生に大きな壁となって立ちはだかる事となったのは否めない。

 ただ、当時一般化して間もない"シンセサイザー"への興味だけが尽きず。余りに高価で手が届かないと言う事が、希求する思いを尚助長したであろう事にも加えて、未来を予感させる聞いた事もない音色の数々にトキメキが止まらなかった。飽くなき要求に呼応して次第に集まって来たピースが、"作曲"と言う行為との出逢いによって、パズルの完成形を予感させて行った。その行為が際立って魅了し始めたのは自明の理であったと思うより他なく、-誰もが持っていたファミコン(®NINTENDO)がどうしても欲しくて厚紙や段ボールなどで作り上げた時の喜びと、頭の中で思い浮かべてゲームをした楽しさは忘れられない。又、友達と外で遊ぶ時、新しい遊びのルールを作って遊ぶのがとにかく大好きだったし、皆が楽しんでいる時のを見ると何より満足感を得られた。新たに何かを構築し創造する事で世界を変えられるかもしれない、と言う思いがいつも去来し、- 少年が音楽の道から離される事は決してなかった。自分達が耳にし聞いている音楽を作った"作曲家"の存在を知り、自らもその道を目指す事を決めた、7歳。初めて作った曲のタイトルは「戦い」、とにかく曲を作るのが楽しくて仕方がなかった。

 

■ 9歳~16歳 夢の予感

 9-10歳の頃に作曲した『ちびまる子のロックンロール』が、1,000人を越えるホールで演奏する機会を貰い、10人余りの出演者の中で一番人気を得たことで、初めてプロのエンジニアの元、渋谷道玄坂にあったレコーディングスタジオにて録音させてもらった。この経験が、今日に於いてまでも、作曲家と演奏家としての両立を図り続ける大きな要因となっている。そして、11歳の頃、県下のクラシックピアノのコンクールを受け予選を勝ち抜いたにも関わらず、本番直前、演奏する予定のバッハのフーガの練習していないページが見開き2ページ分もある事に気付くと言う大失態を冒し(何故、複縦線を終止線に見誤ったのか、今でも分からない。)、当然の如く落選した頃より、純クラシックの道からは徐々に逸れて行った様に思われるが、ロマン派の音楽を思わせる「ピアノソナタ第1番ロ短調」「バラード」を書くなど、完全に断ったわけではなかった。その後、12歳当時組んでいたジャズバンドで参加したコンクールに来ていた、NHK教育テレビ『天才テレビくん』の番組スタッフにスカウトされ、公開ライブにてピアニストとして参加したのがテレビ初出演('93)。「テレビに出演出来たらグランドピアノを買ってあげる」と言う約束より、母が貯金を叩いて買ってくれた(結局、学生時代に40本余りの弦を切り、ダンパーの木材部にはヒビが入る等して、中身はのちに総入れ替えした)。同時に多大なる興味だけが募っていた"シンセサイザー"も、お得意の「人参ぶら下げ」により、「模試で1位を取ったら買ってあげる」と言う事で、程なくして入手(家は金持ちではなかったが、両親は優先してくれた)。シンセサイザーと言っても、正確には多重録音の出来る20万円程する高級なキーボードだった。あらゆる楽器が手の内で操作出来る喜びに創作意欲は否が応でも上がって行き、持ち歩けるサイズの小さな五線紙を片時も離さず、授業中も休み時間も部活動でも隙を見ては作曲していた。自宅にあったチャイコフスキーやヨハン・シュトラウス、グリーグ、ラフマニノフなどのオーケストラ曲の総譜(スコア)を見ながら、オーケストレーションを独学で学び始め、自身で書いた物語に十数曲の組曲を書き下ろしてキーボードで自動演奏させてみるなど、今までやりたくても出来なかった事を寝る間も惜しんで行った。それと共に音楽家、特に演奏家にとっては永遠のテーマと言っても過言ではない問題が、演奏する曲も音自体も大きくなるにつれて深刻になって来た。集合住宅に住んでいた為、当然の事ながら音出しの時間規定が、ピアノ練習と、特にピアノに身を任せて作曲を行う時の大きな壁となり始めたが、中学校のフルート奏者の音楽の先生が大変理解のある方で、朝7時前から始業まで音楽室のピアノを自由に弾かせてくれた、「机を(勝手に)空けて鍵持って行っていいよ」と言う緩さで貸してくれたのである、とにかく有難かった。この事で、ピアノの"弾く"と言う点に於いては、かなり補う事が出来た。夏の日は汗で服がびしょ濡れになるだけではなく、鍵盤がぬるぬるになるほど、必死になって弾き倒した。ただ、朝の練習の時間の3分の1は、登校し始めた同級生や後輩たちへのパフォーマンス演奏に費やされていた。その頃、国立劇場にて行われた政府主催の『戦後50周年記念式典』(天皇皇后両陛下、当時首相の村山富市氏などが参列)にて前田憲男氏の指揮による演奏に参加する('95)(NHK衛星第2放送)。

 作曲の先生から「大作を書こう」と持ちかけられ、半年掛けて書き上げた変奏曲スタイルのピアノ協奏曲『Variatione Appationata』をイギリスから中国へ返還される直前の香港にて行われた記念コンサートにて、香港フィルハーモニー交響楽団と競演('97)、初めてのオーケストラとの演奏となった。翌年、Bunkamuraオーチャードホールにて行われた、ユニセフ主催のコンサート('98)で自作曲『Überwinde den Schmerz! - 苦しみに打ち勝て-』を披露。

 

■ 17歳~20歳 挫折

 進路を問われ、プロになると答えたものの、父より『芸大に行かなければ認めない』と言われるが、その意義を見いだせず反発する。自分の夢見る世界は明らかにエンターテインメントの世界であったが、それ以外認めてもらえる道はなかった。当時芸大学長の優秀な弟子だと言う方を先生として紹介してもらうが、とにかく全てが退屈と感じ、勉強の意味が全く見出ず、何より先生の作品を聞きたいと言ってもはぐらかされてしまうのが気に入らず、やっとの事で見せてもらえた当時学長の解答を見せてもらっても、何が良いのかさっぱり分からず、もしこの作品が一つの答えだとしたら、絶対ここで学びたくないとまで思ってしまった。それでも建設的な打開策を何も見出せずに、何度もボイコットする内に破門となった。結局、何故か周囲から耳に入る論調は、調性音楽を馬鹿にするような話し振りばかりで、それでいながら拷問のように突きつけられる無調の音楽を作曲すると言う義務感の押し付けに甘んじて生きている作曲科と言うもの(偶々、そんな側面ばかりを口にする人達が周囲にいたのだと後で知った)の在り方に果てしなく湧き続ける疑問を抱く内に次第に嫌気が差し、音大に対する魅力は明らかに下がっていた。本当はそんな場所ではないところもあったのに、自分が半分思い込んで行き着いた景色は、残念ながらそんなものにしか見えなかった。何の為に音楽をやっているのか分からなくなるのが悲しくて悔しくてしょうがなかったが、誰にも理解してもらえず、一人になる事が多くなって行った。それでもやるよりしょうがない受験勉強について、1週間の内1,2日程度しかする気が起きず(幼少の頃からの癖もあっただろう)、レッスン前に素早く片付ける程度だった。逃げる様に桐朋の作曲科に入ったが、真剣に臨む学生の中で、斜に構えた姿勢を持って続く訳がなかった。失われたように考えていた数年間を取り戻そうと生き急いでいた割に、既に地に足が着いていないのは、腰を据えて勉強して来なかった事が大きな要因であるのは確実に否めなかった。学生生活を楽しむ余裕などなく、ただただプロとしての活動のスタートを見出せない事に焦り、3ヶ月目には休みがちとなり半年で休学、11ヶ月目で自主退学した。既に担当教諭も見放しており、辞めたいと言ったら即座に許された。事実上、自ら野に下り、在野として生きて行く事を決意した。

 

■ 21歳~ 在野としてのスタート

 退学後、レコード会社にデモを送ったり、自主的にライブを行ったりしていたが、活動は広がっては行かない。決定的な転機は、どうしようもない体たらくとなっていた自分を厳しく叱咤して教育し直してくれた、ピアノと声楽の師との出会いである。そして、いつ何時も励まし続けてくれた、師の御縁で知り合った妻の存在なしに今の自分は決して有り得ない。

 それから、少しずつ仕事が舞い込む様になったが、創造したい世界を表現する為の技術が極めて未熟であると遅ればせながら気付き、今一度、学び直さなければと今更ながら、逆に今しかないと、先生を探し始める。当時、国立音楽大学の学生であったが、今では作曲家・サウンドアーティストとして活躍中の同世代の友人・福田拓人氏に頼んで、作曲家の夏田昌和氏に手紙を渡してもらい教えを乞う。しかし氏は当時多忙に付き、時間が空くまでの間と言う事で、作曲家・菱沼尚子氏を紹介して下さった。のちに試験的意味合いもあったのかもしれないが、フランス和声を習う。その後、菱沼氏より「生徒の内、一番優秀」との言葉を渡りに、夏田氏の元へ通う事が許される。氏には和声と作曲、オーケスレーションなど、作品を持って行っては総括的に習った。学生時代より氏に出会っていれば道は違っていただろうと思わざるを得ない、それほどアカデミックな学問に対する魅力を付与してくれた。そして図らずも興味を持ち直して作っていた無調の音楽或いは現代音楽を試演会で、との話などが上がっていた矢先、氏が覚醒剤所持で逮捕されてしまい、道は断たれた。過去の事を後悔してもしょうがないと思い定めて進んで来たが、若気の至りで大学を辞めてしまった事について、この時ばかりは悔いざるを得なかった。

 その後、対位法についてどうしても学びたくて、作曲家の松本淳一氏(福山雅治主演映画「そして父になる」で2013年に日本アカデミー賞優秀音楽賞受賞)に相談したところ、「(エンターテインメントの世界に身を寄せる君が)和声の延長上にある対位法を、 −そう位置づけて考えるのはあくまでも僕の見解だけど- どうしてそこまで学びたいのか不思議」と言われながらも紹介してくれた方は、国立音楽大学の講師でありながら久石譲氏のアシスタントをし、自身も商業音楽活動を行っていたが、「まさに同業者だ」と言う理由で断られる。再度、松本氏に相談したところ「受けてもらえるか分からないけど、当たってみようか」と、畏れ多くも対位法の大家と言う方に連絡をしてみて下さった。国立音楽大学の教授であり、パリ音楽院にて和声、対位法、フーガを一等賞で30年前に卒業した御大、作曲家の山口博史氏である。運良くも氏の自宅に通わせてもらい習える事となった。コラール・対位法を中心に習い、師の専門でもあられる中世西洋音楽についても熱い薫陶を受けた。特に課題として書いて行ったコラールに関しては、「貴方のはコラールではなく完全に作曲の領域」としたものの、「こんな風に書ける人はなかなかいない。素晴らしい。」と、毎週持って行く課題を楽しみに待っていて下さり、「厳格な法則にしてみれば禁則の限りだが、上手く収めている。どうしてそう易々と渡って行けるのか」と驚きながらも、決して飽きれて見放す事など無く、コーニッシュ流の書法を認めた上で、西洋音楽の地平に対する視界を大きく広めて下さった。「コンセルヴァトワール(パリ音楽院)なら」を枕詞になどして、書いて行った課題や曲に対して、賛辞と批判を繰り返しながら、厳しくも温かい指導は、独自の在り方をあくまで貫いて来た自身としては有難かった。

 在野に立ってからのアカデミックな勉学の習得は困難を極めた道ではあったが、有難くも縁に恵まれ、師に恵まれて、進めて行くことが出来たように思う。この勉強法は、活動が多忙になると(レッスンが)受けられなくなると言う難点はあるものの、学んだ事を即戦力として直ぐに扱う事が出来るので、目的もなく単に勉強するよりもずっと無駄がない。活動を始めてからの勉強の方が全てに於いて納得することが出来、進むべき方向性が見出せた。厚い和音作りが必要な時には和声を学び、対位法的な手法を用いた音が必要な時には対位法を学び、全ては「こう言う音楽を作りたい」と言う理想があった上で足りないところを補うための行為であり、曲作りへの情熱と、差し迫った状況に於ける技術の必要性が、再再の勉学に駆り立てた。この先もこの在り方を貫いて進んで生きたいと考えている。

 

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